高校の世界史でイギリスの歴史に触れると、イギリスがまるで利益のためなら手段を選ばない悪どい国のように思われることがある。
アヘン戦争や植民地インドにおける搾取、幾度となく発生した欧州戦での狡猾な立ち回りなど、彼らが歴史に残した「武勇伝」の数々は、この極東の島国においても褒められる類のものではない。正義感の強い先生は授業で悪者のように教えるし、興味を持つのは捻くれたギークの学生くらいなものだろう。
しかしイギリスの立場からすると、その「武勇伝」の大半は、当時の情勢を踏まえて下した現実的かつ真っ当な判断に過ぎない。今に生きる多くのイギリス人も、イギリスが悪事を働いてきたとは思っていないだろう。確かにイギリス史関連の書籍や資料に目を通すと、当時の為政者に悪意があったわけではないことはよく分かる。それどころか彼らの多くは「ノブレス・オブリージュ」の精神を持つ奉仕者だった。
では一体何がイギリスを、我々が想像するような「狡猾な大英帝国」たらしめたのか。第二次世界大戦からイギリスの歴史を遡っていくと、その行動の原則は、ある一人の女性君主の時代に始まるように思われる。
生涯独身を貫いたエリザベス1世の知恵
1558年、頑迷な性格でプロテスタントを弾圧し、イングランドを混乱に陥れたメアリ1世が死去すると、妹のエリザベスが国王に即位した。メアリとは違い、プロテスタントとしての教育を受けていたエリザベスは、メアリが弾圧したプロテスタント系のイングランド国教会を復活させて内政の安定化を図った名君として知られている。歴代のイギリス国王のなかでは、かのパクス・ブリタニカの時代を築いたヴィクトリア女王に並ぶ存在なのではないだろうか。
One of my favorite women in history. Queen Elizabeth I fascinates me and always will. A single woman who not only reigned but also ruled in the 16th century when the expectation was to marry. #Tudor #History pic.twitter.com/66Vjch0UIi
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エリザベス1世が手腕を発揮したのは、こと内政においてばかりではない。彼女の国民的人気を支えるエピソードとして最も有名なのが、巧みな外交手腕でスペイン無敵艦隊を撃破したことだろう。25歳の若さで即位したエリザベス1世は、その美しさと華やかさでも知られるが、実は非常にリアルな思考の持ち主。ドーバー海峡を挟んでフランス、スペインという強国がヨーロッパを割拠する中、弱小国だったイングランドをどう守るべきか、常にくよくよしながら考えていたという。
エリザベス1世が生涯結婚しなかったのは、王室同士の政略結婚により、フランスとスペイン両王室の力が及ぶのを防ぐためだった、という話は余りにも有名だろう。また両王室に結婚話をちらつかせることにより、イングランドがフランスかスペインのどちらかに近づいてしまうのではという恐怖心を与え続ける狙いがあったのかもしれない。いずれにせよ彼女が生涯結婚しなかったのは、イングランドの独立を守るための策略だったのだ。
彼女の余念のない外交戦略は、よりリアルな地政学上の計略にも及んでいる。
17世紀当時、現代のオランダ、ベルギーに相当する「低地」ネーデルランドの独立は、イングランドの安全保障にとって最も重要な条件だった。ところが1567年、ネーデルランドに政治的影響力を持っていたスペイン(カトリック国)に対するプロテスタント信者の暴動を鎮めるため、スペインがアルバの大軍を派遣。西ヨーロッパの勢力均衡の要として、軍事的空白を保ってきた「低地」がたちまちスペイン軍の配下に置かれてしまったのだ。
これではスペインが、低地を足掛かりに容易くイングランドに侵攻することができてしまう。エリザベスは何としてでもスペインを低地から撤退させなければならなかった。敬虔なカトリック信者であるスペイン王フェリペ2世は、プロテスタントのエリザベスを異端視し、イングランドのカトリック化と、エリザベスの処刑を画策しているのである!
そこでエリザベスは、時の忠臣ウィリアム・セシルとともに、周到な諜報活動と計略でスペインを退けようとした。ネーデルランドにおける反スペインプロテスタント信者への秘密裏の支援、海賊を利用してのスペイン軍への襲撃、スパイを利用してのスペイン経済への妨害活動、一時的なフランスとの協調関係など、あくまで間接的な謀略に留めるのが彼女とセシルの手法だった。それは彼らが陰湿なのではなく、あくまで主眼を「イングランドを守る」ことに置いていたからであり、「大国」スペインとの全面対決は極力避けたいという願いもあった筈だ。
スペイン無敵艦隊の襲来
だが1587年、エリザベスが自身の暗殺計画(スペインに扇動されたカトリック教徒の仕業)に加担したスコットランド女王メアリを処刑すると、スペイン王フェリペ2世はついにイングランドの討伐を決断。翌88年にはアロソン・ペレス・デ・グスマンを司令官に艦隊を組織し、イングランドに上陸&エリザベスを処刑して同国のカトリック化を進める計画を実行に移した。ネーデルランドでプロテスタントの反乱者と戦う部隊と合流すれば、容易くイングランドを攻略できると考えていたのである。
しかし神経質なエリザベスは、事前に派遣していたスパイにより、この計画を1年前から察知していた。負ければ異端審問にかけられ、火あぶりにされてしまう。彼女はスペインに対する準備妨害と入念な戦闘準備を怠らなかった。来るべき戦いには自身の命と、イングランドの命運が懸かっているのだ。
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そして迎えた英仏海峡での海戦。イングランド艦隊はスペイン艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を尽かせ、その隙にサッと接近して攻撃するという戦略で、見事戦いの主導権を握った。火薬を満載した火船を停泊中のスペイン艦隊にしれっと送り込み、スペイン軍を大混乱に陥れたことも有名だろう。
結果は言うまでもなく、イングランドの勝利に終わった。世界最強と謳われていたスペイン艦隊は無残な敗走を余儀なくされ、嵐と食糧不足・水不足により多くの兵士が死んでいったという。ちなみに世界史で習う「スペイン無敵艦隊」の名称は、勝利後にイングランド側が皮肉を込めてつけた蔑称だった。日本でいうところの、「無敵艦隊 (笑)」のようなニュアンスなのかもしれない。
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後世の模範となったエリザベスの精神
エリザベスの死後、パクス・ブリタニカの時代を経て第二次世界大戦に至るまで、イギリスが外交で最も神経を尖らせていたのは、一貫してヨーロッパにおける強国の出現を防ぐことだった。「弱小国」イングランドを守るため、くよくよしながら神経質な外交を展開したエリザベスの精神が、その後のイギリス外交の基本原則のなかに取り込まれたのだ。とりわけ脅威となる強者に対し、各種謀略を交えつつ、間接的に対抗軸を組織してしまう巧妙なやり口は、まさにエリザベス的といえるだろう。そしてこのエリザベス的な基本原則こそ、今日の我々がイギリスに対して抱く「悪どい」イメージの根源なのである。
だが注意しなければならないのは、イギリスが「悪い国」だから、世界の四分の一を版図に収める大英帝国を築けたわけではないということ。イギリスの繁栄を語るうえでもっと大切なことは、紛れもなく「王室を頂点とする帝国の威信」「マグナ・カルタに端を発する統治の在り方」「権利の概念」「それらに共感する奉仕の精神をもった為政者の存在」「自由を保障された民による経済活動」だ。それにエリザベス的な「物事を慎重に見極め、適切な行動を取る力 (笑)」が加わった結果、世界に冠たる大英帝国を築くことができたのではないだろうか。
大国の狭間を生き抜いたエリザベス女王の知恵が今最も必要なのは、現代においてなお大国の狭間を生きる我々日本人なのかもしれない。
サムネイル出典:Britanica