アヘン戦争とイギリス 大英帝国はいかにして香港を獲得したのか

引き金を引いた林則徐の厳禁令

時は17世紀半ば、イギリスは中国(清朝)から紅茶の原料となる茶葉や陶磁器、絹などを多量に輸入していたため、清に対する貿易赤字に悩まされていた。そこでイギリスは植民地インドで麻薬のアヘンを製造し、清に密輸することで貿易赤字の解消を目指した。もともと明代末期よりアヘン吸引の習慣が広まっていた中国だが、これによりアヘン中毒による健康被害・風紀の乱れが一層深刻化し、清朝政府は1796年にアヘン輸入禁止の措置を取る。

しかし清の商人が密輸を取り締まる地方の役人を買収することにより、インド産アヘンは流入し続けた。増える廃人と続く銀の流出。痺れを切らした道光帝は1839年、清はアヘン取り締まりに意欲的だった林則徐を欽差大臣に任命し、アヘンの輸入口となっていた広州に派遣。ついに徹底した取り締まりに乗り出すことになる。

林則徐は密輸商人に容赦しなかった。賄賂の申し出にも応じず、アヘンの密輸者・吸飲者に死刑を適用すると通達。イギリス商人にはアヘンの引き渡しを要求したが、返事がないので商館を強制的に閉鎖し、アヘン2万箱を押収した。しかし、今となっては当然に思える林則徐のこの行動も、自由貿易の拡大を目指す当時のイギリスには通用しなかった。清による不当行為、いや侵略のチャンスと見做されたのかは定かではないが、これがイギリスによる軍事侵攻を招いてしまったことは言うまでも無い。

パーマストン外交と自由貿易

1839年当時、イギリスを支配していたのは時の女王ヴィクトリアだった。37年から1901年までの63年間に渡りイギリスに君臨し、在位中に帝国の最盛期を築いたとされる彼女だが、当時のイギリスでは既に議会政治が確立されていたため、重要な政治判断は全てメルバーン首相以下議会のメンバーによってなされていた。そして当時外務大臣の任にあったのが、イギリス史において「パックス・ブリタニカ」の象徴的人物とされるパーマストン。もともと非常に性格の良い人物とされる彼だが、外交交渉においては常に帝国の利益を最優先し、自由貿易論を軸とする強硬な外交を展開したことで有名だ。では何故彼はそこまで自由貿易に拘ったのか。


18世紀半ばに産業革命に成功したイギリスは、当初こそ世界の工場であり、マンチェスターの綿製品を中心にヨーロッパ市場で独占的な地位を築いていた。しかし19世紀になるとヨーロッパ諸国も次々と産業革命を成功させ、イギリス製品の地位は低下。このためヴィクトリア女王の即位した1837年にはイギリスは不況に陥っていて、自由貿易により経済を立て直す必要性があったのだ。

そんな折に浮上したのが中国におけるアヘン問題。パーマストンは妥協するわけにはいかなかった。林則徐に奪われたアヘンの賠償を道光帝が拒否すると、軍隊を派遣して清を屈服させることを思いつく。しかし19世紀といえど、イギリスは既に議会政治の国。隠されていたアヘンの密輸が明るみに出ると議会はたちまち紛糾し、人道的立場から軍の派遣に反対する者も多かった。ちなみに派兵に反対したウィリアム・グラッドストンはのちに「この戦争はイギリスの恥」「中国人は井戸に毒を撒いてもいい」とパーマストンを批判している。採決の結果は賛成271票、反対262票。わずか9票差での可決だった。

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清軍を圧倒したイギリス軍

そして1940年5月、イギリス軍は広州に艦隊を派遣し、広州湾を封鎖。圧倒的な近代装備を前に清軍はなすすべもなく敗走し、イギリス軍の天津への進出を許してしまう。これに焦った道光帝は林則徐を左遷し、イギリスとの和平交渉に当たるも決裂。1941年5月にはイギリス軍の広州への上陸を許してしまう。やがてイギリス艦隊は鎮江で北京へと続く大運河の封鎖 (運河は大動脈にして国の生命線) を通告し、これが決定打となり清は再び和平交渉に応じることとなった。


1942年8月29日、それまで眠れる獅子として恐れられてきた清はついにイギリスに屈服した。この戦争の結果として締結された南京条約はいわゆる不平等条約で、上海をはじめとする五港の開港、香港島のイギリスへの割譲、関税自主権の放棄、そして多額の賠償金が請求された。香港が手に入るという知らせに女王ヴィクトリアは歓喜し、長女を第一王女 (Princess Royal) に加え香港大公 (Princess of Hong Kong) と呼ぼうかと小躍りしていたらしいが、その後九龍に面した海峡に彼女自身の名が付与されたことは言うまでもない。

このように、アヘン戦争は間違いなく、帝国的野心をもったイギリスの中国に対する「侵略戦争」である。列強のアジア進出のきっかけとなった事件でもあるだけに、その罪は大きいのかもしれない。しかし、時の外相パーマストンがそうであったように、イギリスの帝国的野心は常に貴族的な奉仕精神と表裏一体をなすもの。世界史でイギリスの歴史を習うと、イギリス=利益のためなら手段を選ばない性格の悪い国のように思えてくるが、内実に迫るとそうともいえないのもまた事実である。植民地となった香港が帝国の庇護の下繁栄を謳歌し、やがて共産主義政権となった中国の投資窓口として機能したことを考えると、その功罪は筆舌し難いのではないだろうか。

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この記事を書いた人

『TRANS JOURNAL』編集者。神奈川県出身。京都外国語大学外国語学部卒。在学中に中国・上海師範大学に留学。卒業後は製紙会社などに勤務。なお、ここでの専門はイギリス。パンと白米があまり好きではなく、2020年にじゃがいもを主食とする生活を目指すも挫折する。