中国、全人代で香港国家安全法を審議へ 中国共産党の狙いと香港市民の怒り

5月22日、中国の国会に相当する全国人民代表大会が北京で始まった。香港における国家安全法の施行を審議するとの報道が、全中国関係者を震撼させたに違いない。

香港国家安全法とは、香港において(中国からの)分離活動や政権転覆運動、テロ活動の組織化や外国勢力による干渉などを禁止する法制度のこと。建前上は「一国二制度」の原則に基づく香港の長期的な繁栄と安定を確保することが目的とされていて、香港返還時から導入の是非を問う議論がなされてきたのだが、中国共産党による香港支配の口実として使われることを恐れた香港市民の反発により長らく施行が断念されていた。

中国本土から完全に独立した司法体系をもつ香港で新しい法律を施行するならば、通常は中国本土での審議とは別に香港の立法会(国会に相当)の議決を経なければならない。しかし昨年のデモを重く受け止めた中国当局は、今回の全人代で、どうやら香港立法会の議決を経ずに香港国家安全法を制定しようとしているらしい。

仮にそれが本当に実行されるのだとしたら、中国が香港の独立した法制度を無視するというあってはならない事態である。市民からの更なる反発も含めた今後の香港情勢に大きな憂慮を抱かざるを得ない。香港市民にとっては血を流してでも香港独立を選ぶのか、それとも中国への従属を選ぶのかという究極の二者択一を迫られる、究極の有事なのではないだろうか。

時は2018年、私が香港で大袈裟だと疑問視していた香港市民敵対心は、どうやら的を射ていたようである。

ビザランで垣間見た香港市民の怒り

これまで中国本土を主な活動拠点としていた私であるが、香港にも縁が無かったわけではない。中国旅の玄関口として、日本発の航空路線が充実している香港国際空港を利用することが多かったためだ。

そして本土と香港とを跨ぐ、中国の一国二制度を有効に活用したビザランは、恥ずかしながら当時底辺旅行者だった私の生命線にして、かつ香港の事情に精通するきっかけをくれた一大イベントだった。ビザランとは、国境を行き来することによりノービザでの滞在許可日数をリセットする旅の裏技のこと。ようは陸路で繋がった国の国境を行き来していれば、滞在許可日数を気にせずずっと旅を続けられるのだ。面白いことに一国であるはずの中国と香港のボーダーでもその理論は適用でき、羅湖や福田のイミグレを行き来さえしていればずっと中国に滞在できてしまうのである。かつてはこの裏技を利用して、どさくさ紛れに中国で会社を経営したり、中国人の配偶者と結婚生活を送ったりする強者までいたらしいが、真偽のほどは定かではない(彼らはコロナでどうなってしまったのか)。

かくいう私もその制度にあやかり、かつて最長2か月間ほど中国と香港に滞在していたことがあった。日本人が中国本土にノービザで滞在できる日数は15日間なので、広い中国大陸を楽しむには全く物足りない。なので10日間ほど旅したところで深センに向かい始め、羅湖のイミグレから一度香港に入り、バックパックにある一番良い服を着て2日、乃至3日ばかり過ごしたところで再び深センに戻るのである。

私はその時から香港で、中国に対する憎悪ともとれる市民のいやな感情を読み取っていた。時は2018年。あの香港デモの一年以上前の話である。彼らの敵対的な感情は、時に標準中国語を話す私にまで向けられることもあった。「鼻持ちならない奴らだ」と当時の私は気にも留めなかったのだが、今思うと香港人の感情も理解できる。香港は広東語圏のはずなのに、中国のそばにあるという理由だけで、全く別言語の標準中国語を押し付けられたら不愉快だろう。羅湖のイミグレから流れ込む中国本土の観光客は、香港人を中国人と見做し、何のためらいもなく標準中国語を話してしまう傾向にあるが、それが香港人からすると嫌でたまらないのだ。

同じ漢字文化圏の我々も、この点については想像しやすいのではないだろうか。同じ漢字を使っていても日本語と中国語は違うのに、ある日突然中国から中国語を使うことを要求される。そして諸外国からは中国の一部と認識され、外国人からも中国語を使われてしまう。そんな状況に追い込まれたら、我々だって当然声を挙げるだろう。

その後私はビザランの最中に、羅湖のイミグレから九龍半島を結ぶ東鉄線の車内で、香港の一流大学である香港中文大学卒の香港人と知り合うことになった。私がスマホで日本語のニュースサイトを読んでいると、それが隣の彼女の目に留まり、英語で話しかけられたことがきっかけだった。小柄ながら黒縁眼鏡の眼光が鋭く、やや直接的な物言いをする、いかにも香港のエリートらしい女性である。

私は英語が下手くそなので標準中国語で返答すると、巷の香港人のような拒否反応は示さず、日本人が中国語を話したことに驚きもせず、やや訛ってはいるが流暢な標準中国語で応答してくれた。話によると彼女は先日日本を訪れたばかりで、河口湖や富士山などを一人で巡ったそうである。三鷹ジブリの森美術館にも行ったが、予約制であることを知らず、受付で入場を断られたといって笑っていた。

終始朗らかに話が進むかのように思われたが、火炭駅を過ぎたあたりから話題がふと香港情勢の話に移ると、彼女の顔つきは一変し、身を乗り出す勢いで持論をぶつけてきた。議論は私が降りる旺角東駅まで続き、帰国後も話し合おうとWeChatのアカウントを尋ねたところ、WeChatは中国当局の統制下にあるのでLINEにしたいとのことだった。帰国後、LINEでの議論で彼女がしきりに強調していたのは、香港は香港なのであって、中国では決してないということ。中華民族の血は引いているが、「想法(考え方)」の異なる別民族なのだという。

香港の知人「中国は古代から何もかわっていないんだ。ずっと独裁で、人民は時の権力者の言われるがまま。同じことの繰り返しよ。でも私たちは違うの。香港人は一人一人が独立した精神を持っていて、とにかく自由に生きている。だから権力主義の共産党政権は受け入れられないし、権力に従順な中国人とは相容れない。そこが決定的に違うところなの。」

佐藤「それも建前としては分かるけれど、本音では民度の低い中国人に支配されたくないだけなんじゃないの。香港人の中国人のあしらい方を見ててそう思ったけど、それは違うの?」

香港の知人「それだけではない。佐藤さんは知らないかもしれないけど、香港人だって昔は中国政府に良い感情を持っていたの。改革開放で経済が発展すれば、政治も民主的になると思っていた。でも現実は違った。裏切られたのよ。昨今の監視社会、言論統制を見れば分かるでしょ。状況はますますひどくなっている。前の胡錦涛政権はまだ良かったね。中国も自由だったし、香港に干渉してくるようなことは無かった。それが習近平政権になって、一気に圧力をかけてきたの。今の行政長官は中国の傀儡で、グルになって香港の自由を奪いに来てる。絶望的な感じ、って言って分かるかな。私たちだって中国人にもいい人が居ること位分かるわ。でもこのまま抵抗の意思表示をしなければ中国の思うがまま。だから私たちは香港のために戦うの。もうそういう段階まで来てしまっているの。」

普段の排他性が気になる香港ではあるが、このときの彼女の力説にはさすがの私も影響を受けてしまった。我々からすると同じ中国なように見えるが、ある日突然習慣の違う共同体に併合されて、言葉を強要されて、政治制度まで脅かされたら誰だって不愉快だろう。香港人が抵抗するのは当たり前で、中国側が「他者」の気持ちや事情に鈍感だったと言わざるを得ない。中華思想的な中国の特徴がそのまま仇となってしまった、典型的な例なのではないだろうか。

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一方で、中国にも譲れない事情があった。香港はアヘン戦争でイギリスに奪われた屈辱の場所。やっと取り返した自国の領土を元に戻したいという心理が働くのも無理はない。問題の本質は、イギリスが香港を統治する150年の間に起こった、両者の制度と気質の乖離にあるのだろう。大きく言えば、共産主義か、自由主義かの違いである。中国も経済的には豊かになったものの、深圳から羅湖を経由して香港へ入境すると、その気質の違いは旅行者の目にも一目瞭然だろう。

しかし香港は北京にとって、軍事的な脅威などでは決してないので、ここまで躍起になって同質化を進めようとする理由が私にはわからない。寧ろ自動的に対中投資を集めてくれる、いわば鼠を捕る猫のような存在なのだから、香港基本法で定められた50年間は好きにやらせれば良かったのではないだろうか。事実、香港国家安全法の制定を取り下げた胡錦涛政権下では、香港の対中感情は瞬く間に好転し、寧ろ中華民族としての一体感すら生まれていたほどなのだから、ここまでの分離と対外関係の悪化を招いた現政権は、こと香港問題に関しては無能だったと言わざるを得ない。たかが面子の為に、失ったものは計り知れないのではないだろうか。

逃亡犯条例と中国の工作活動

時は2019年6月、香港で逃亡犯条例改正案に反対する大規模デモが発生した。改正案は、それまでは個々で対応していた犯罪容疑者の身柄引き渡し手続きを簡略化するとともに、香港が身柄引き渡し条約を結んでいる20ヵ国以外にも対象を広げるという内容だった。

2018年2月に香港人が台湾で殺人事件を起こしたものの、その後犯人が香港に逃げ帰ってしまったために、身柄引き渡し条約を結んでいない台湾で起訴できないという事案が発生したために提出されたらしい。「法律の抜け穴を埋める」という大義のもと、改正案の身柄引き渡し先には中国本土も含まれていた。なので中国共産党に反対する者が恣意的に捕らえられ、中国本土に送られると解釈した香港市民は暴発し、あの惨憺たるデモへと繋がってしまった。当初はそこまでの反発を想定していなかったというが、ガソリンの海にマッチを落としたかような、見事なチョンボだったのが記憶に新しい。

そしてデモが激化の一途を辿る9月半ば、私は中国で旅の記事を書くため、香港を経由しなくてはならなくなった。デモに巻き込まれるといけないので、そそくさと大陸へ向かったのだが、それでも駅に座り込む黒服の若者が目に留まった。

高速列車で広州に着くと、そこは平和な世界だった。広い区画に美しいガジュマルの街路樹、おばさん達の広場踊り。良い意味でも悪い意味でも中国本土は統制されているので、香港の不穏な空気は一切無い。香港人は口を揃えて中国政府こそが平和の敵のように言うが、広州の平和を目の当たりにすると何が悪なのかよく分からなくなってしまう。

しかしこの作られた平和こそが、中国共産党が自前の社会システムを香港、乃至世界に浸透させ、影響力を拡大する口実となり得ることに我々は注意しなければならない。市民生活レベルでは平和に見えても、そこには必ず反抗する者への弾圧と、徹底した口封じが存在していることを我々は忘れてはならない。

それが200年に及ぶ混乱と、文化大革命で乱れた国民の規律を正すために、仕方なく導入されている社会制度だというなら話はわかる。しかし社会が特に乱れているわけではなく、自由でも高度な社会的信用を保持してきた香港、乃至その他の民主主義諸国に広めようとする昨今の中国の挙動は、断じて許すことはできないのだ。

そして事実、彼らはネット空間に大量の人員を投入して、批判者の摘発と、世論工作にあたっているのをご存じだろうか。香港が逃亡犯条例の件で戦々恐々としているとき、私は中国で、彼らによる工作活動が日本のSNSにも及んでいることを知ってしまった。周庭氏が「今日〇〇で警察が市民に催涙弾を打ち込みました」と画像をシェアすると、すかさず中国共産党の工作部隊と思しき人物がリツイートして反論する。そしてそれに追随する、無数の工作アカウントが徹底的な攻撃を加える、というふうに。


そして彼らの工作活動は周庭氏らデモ隊員に限らず、日本の一般市民にまで及んでいた。Twitter上で香港を擁護する発言をしようものなら、例え普通の日本人であっても、彼らは徹底的な攻撃を加えていたのだ。過去のツイートからその人の弱みを洗い出し、それに付け込むというような、プロとしか思えない心理戦術を組織的に展開している様子が散見された。もちろん全て日本語でである。

ここで問題となるのが、彼らが我々民主主義諸国の言論空間を、組織的に歪めようとする意思と実力を持っていることだ。中国が力をつければつけるほど、彼らの工作活動になびいてしまう人が増えないか、私は心配でならない。今回の逃亡犯条例から、国家安全法審議までの中国政府の流れを観察していると、トップが機を狙って判断し、下の者が流れるように動くという中国特有の行動原理が見て取れるので、我々も隙を見せているうちにたちまち付け込まれてしまうのではないかという恐怖心が、私をこうして警鐘を鳴らさずにはいられなくさせるのである。

危機を迎えた一国二制度と中国政府の狙いとは

中国が香港に手出しをすると必ず言われるのが、「一国二制度が崩壊する」という決まり文句だ。メディアもこぞってそう報道するので、中国が一国二制度の切り崩しにかかっていると思われがちだ。しかし中国は本音のところ、一国二制度の完全破壊までは望んでいないだろう。なぜなら、香港の一国二制度は中国に少なくないメリットをもたらしているからだ。

多くの企業が自由な香港市場に株式を上場して、外国人から多額の資金を集めているし、中国で作られた製品が、世界有数の貿易港である香港を介して世界と取引されているのは言うまでも無い。例えDGP比で香港の重要度が下がったとしても、香港のもつ金融センター・自由貿易港としての役割を利用する価値はまだあるのだ。それを締め付けにより徐々にフェードアウトさせ、金融センターとしての役割を上海に移行させたいのではないかとも言われているが、真偽のほどは定かではない。

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それに中国は、台湾を一国二制度で併合しようと画策しているのをご存じだろうか。まず香港国家安全法で香港の統治をゆるぎないものとし、それでも自由な体制がある程度保障されていることを謳い文句に、台湾を中国に取り込むのというのが彼らの描く筋に違いない。だからこそ彼らにとって、香港の独立や民主化などというのは絶対にあってはならないことで、多大な犠牲を払ってでも食い止めようとしているのだろう。事実、台湾には空母20隻分の価値があるのである。

香港国家安全法の施行が上手くいけば、中国はすぐさま台湾併合に向けた動きを強化するだろう。やがてその矛先は沖縄や、日本にも向けられるのかもしれない。官民問わず、隙があるとトップが判断するや否や、流れるように仕掛けてくるのが中国である。中国との交流や商売までやめろとは言わないが、民主主義陣営の一員として、隙を見せない心構えがいままで以上に重要なのではないだろうか。

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この記事を書いた人

『TRANS JOURNAL』編集者なり。神奈川県出身。京都外国語大学外国語学部卒。在学中に上海師範大学に留学。卒業後は製紙会社などに勤務。翻訳もたまに。ここでは興味の赴くままに、イギリス帝国や中国に関する記事を執筆。