寝台列車で漢字のふるさと安陽へ 殷墟で甲骨文字を見学しよう

2019年秋、私は中国の歴史を語る旅に出ました。のちに「中国ディープ旅」と命名されるこの旅は、一介の日本人による大陸見聞録へと発展。何かとキニナルあの国ですが、そこには日本の常識を覆す大陸ならではの光景が・・・。中国四千年のディープ旅、次はあなたの番かもしれません。

四日目 安陽到着

おはようございます。4日目の朝は御覧の通り寝台列車の車内で迎えた。隣のおじさんのいびきがうるさく、一度だけ目が覚めたものの基本的には快適に眠ることができた。布団やシーツなどもきちんと整えられているので、慣れてしまえば誰でも問題なく過ごせるだろう。

列車は私が寝ている間に長沙、武漢を経由して京広線をひた北上し、いよいよ中国発祥の地、中原と呼ばれる黄河流域の文明地帯に差し掛かろうとしていた。「中国」というと、今でこそこの広い中華人民共和国の領土のことを指すが、夏、殷、周と続く古代中国の時代、「中国」とは現在の黄河下流域に広がる平原、つまり河南省・山東省・陝西省・河北省の一部に限られていた。そこから漢民族の拡大に伴って、中華文明は広くユーラシア大陸に広がったのだ。

私がこの列車で向っているのは、実は終点の天津ではなく、安陽という河南省の中規模都市。河南省の省都・鄭州から北へ200キロほどの位置にある、とても地味な街だ。安陽が京広線という、中国を南北に縦走する大幹線の途上になければ、誰しもがその存在を忘れてしまうだろう。

しかし、今でこそ地味な存在となってしまった安陽だが、歴史的には大変重要な意味を持つ場所である。なぜなら、安陽は中国最古の漢字「甲骨文字」が発掘された場所だからだ。そして、日本の教科書にも登場する殷の大宮殿「殷墟」も実は安陽に存在する。

14:06 安陽駅到着

広州を出て19時間、列車はようやく安陽駅に到着した。列車を出ると、広州とはまるで違う乾いた空気のざらつきを感じた。空気は薄汚れているようで、暫くすると喉に痰がからむようになった。いくら改善が進んでいるとはいえ、中国内陸部の大気汚染はまだまだ改善の余地があるようだ。

改札を出ると、黒車と呼ばれる違法タクシーの客引きが押し寄せる。これは中国の鉄道駅お決まりの光景で、多少ついてきてもスルーして立ち去ればなんてことはない。私も最初個の頃はビビっていた。今日もそそくさと駅を立ち去り、ホテルへ向かう。

14:30 ホテル到着

今回安陽で予約したホテルは、駅から徒歩6分ほどの場所にあるIbisホテル。六本木駅前、吉本芸人御用達のホテルアイビスではなく、フランス系のチェーンホテルだ。ちなみにアイビスではなくイビスと読む。

部屋はこちらのセミダブル。広さ、清潔感共に申し分ない。ちなみに、この日はTrip.comからの予約で一泊なんと1,850円であった。これだから中国旅はやめられないのだ。

五日目 徒歩で殷墟へ

11:10 ホテル出発

安陽入り2日目、この日はホテルから徒歩で殷墟へ向かう。距離は3.5km、約50分の道のりだ。この日の安陽は晴れて空気もだいぶ綺麗になった。喉がやられるので、大気汚染がひどい日には歩かないほうがいいだろう。

通りを歩いていると、豆せんべい売りの三輪スクーターが通りかかった。中国では様々な食品が移動販売で売られているが、果たして安全なのだろうか。ただ、中には素晴らしいものも混ざっていることを私は知っている。

こんどはサッポロビール工場のような謎の塔が出現。どうやら廃工場を改装したショッピングモールらしい。ただし、過度な装飾で雰囲気はぶち壊しとなっていた。中国にはどうしてこうも「惜しい」ものが多いのだろうか。

中国の通りはとにかく広い。まるで御堂筋が3本並んでいるよう。ちなみにここでは信号が青になったと同時に渡り始めたが、案の定3/2地点まで歩いたところで赤に変わった。

いよいよ殷墟遺跡区に入るとある。あまりのワクワクにスキップしたい気持ちを押さえながら、安陽大道を西へ直進。

途中の公園には文革時代を彷彿させる字体と語調で「文物の盗掘を厳しく打撃することを決せよ!」と書いてあった。窃盗犯は盗んだ文物をどうするのだろうか。どうすればお金になるのか、その仕組みが気になるところ。

中国鉄道の踏切では、貨物列車がゆっくりと通過していた。編成は長大で、軽く50両はあったのではないだろうか。

踏切を超えると、奈良を彷彿させる塀と見張り台が。殷墟はもうすぐそこである。

殷墟見学

11:50 殷墟に到着

ホテルから歩くこと40分、中国における漢字発祥の地、殷墟に到着した。この赤い柵のような門、世界史の教科書に載っていたのを覚えているだろうか。

ここで、殷と殷墟について簡単に説明しておこう。殷は紀元前16-15世紀の頃、湯(とう)という王が夏王朝を倒して建国されたといわれている。夏はその存在が考古学でまだ確認されていないので、今のところ殷が実在した中国最古の王朝となる。

殷が夏を倒す以前、殷人は東北アジアで狩猟を営んでいた。殷の伝説では殷の始祖は契(せつ)というが、彼は高原の遊牧民の娘、簡狄(かんてき)が水浴びに行ったとき、ツバメの卵を食べて妊娠した子だとされている。いや、どうせセ〇クスしたんでしょ

その後契の子孫は14代に渡り夏王朝に仕え、湯の代にようやく夏を倒し、中原を支配するに至ったのである。

ちなみに、今回訪れた殷墟は殷代末期の宮殿跡で、この地に都が遷されたのは紀元前1384年のこと。殷の前期、中期ともに文字の記録は見つかっていないが、殷墟に遷都されてからようやく甲骨文字の使用が確認されている。そう、ここは中国で漢字が初めて使用された場所なのだ。なので漢字を使う我々日本人にとっても感慨深い場所なのではないだろうか。

殷墟内部では博物館や採掘跡を見学することができる。宮殿自体が現存しているわけではないので物足りないかもしれないが、博物館の展示を見る限りでは当時の文明がいかに高度であったかが伺える。

▲殷墟から発掘された甲骨文字。象形文字ではあるが、既に文字としての抽象度はかなり高くなっている。2枚目の真ん中は「未来」、右下は「王」なのであろうか。

▲同じく殷墟から出土した青銅器。炊事のときに使う器具で、器に食材を入れ、下の箱に水を入れ火にくべると食材を蒸すことができる仕組みになっている。これが3,400年前の出土品だとはにわかに信じがたい。そのとき日本には何があったのだろうか。

▲殷墟のハイライトとも言える展示がこちらの馬車抗。当時殷は占いで政治を行っていて、そのために多くの生贄を必要とした。生贄は周辺部族から見せしめ的に要求され、政情が不安定になると生贄の数が増えたのだという。この馬車は、恐らく生贄を天か神へと届けるためのものなのだろう。荷台には殺された生贄の骨が横たわっていた。

周辺部族に対して生贄による恐怖政治を行っていた殷。それを嫌っていた周辺部族はやがて密かに通じ合い、紀元前1111年、周の武王の手により殷は滅ぼされることとなった。…この話、どこかで聞いたことがあるような…

ちなみに私が以前勤めていた会社は同族系で、創業家が社員に対し横暴な恐怖政治を行っていた。そしてあるとき創業家出身の社員ひとりが問題を起こすと、ここぞとばかりに成り上がりの重役メンバー全員が反旗を翻し、創業家を一人残らず追放してしまった。これ、実話である。中国史が面白いのは、そのストーリーをそのまま現代の人間世界に当てはめられるからなのかもしれない。

この記事を書いた人

『TRANS JOURNAL』編集者なり。神奈川県出身。京都外国語大学外国語学部卒。在学中に上海師範大学に留学。卒業後は製紙会社などに勤務。翻訳もたまに。ここでは興味の赴くままに、イギリス帝国や中国に関する記事を執筆。